今日は試験が三日後にせまった最後の休日。
いつも世話になってるし暇だから勉強教えてやるよ、という思いもしなかった先生の言葉を受け、彼が住んでいる学園内の家に訪ねてきた。
勉強を教えてもらうためとはいえ、好意を寄せている人の家に行くのだから胸をドキドキとさせ緊張していたのだが・・・・・現実は甘くない。
「だーかーらー!コレがああなって、そうなるからこうなるんだよっ」
「・・。。・分からない」
「だーっ!もう休憩!」
椅子が倒れそうな勢いで立ち上がると、頭をガシガシと掻きながらキッチンの方へと消えていった。
抽象的な説明をする先生が悪いんじゃない。
そんな不満が喉まで出かかったが、教えてもらっている身だしと理由をつけて口の中で噛み砕き飲み込む。
先生が部屋から出ていった方をじろりと一目見ると、教材が広げられているままの机の上にうつ伏せた。
先生と二人っきりで勉強を教えてもらえる、と浮かれていたのだが想像していたのと全然違う。
わざわざ服だって気にして大人っぽいのを選んだのに、気がついてもいないみたいで悪態の一つすら言ってくれないし。
第一、幾ら生徒とはいえ自室に二人きりなのだから異性として意識しないのだろうか。
―――もしかして、自分なんか女の子として見られていない?
「ひゃあっ」
悶々と混濁していた意識の中に飛び込んできた急な刺激に、素っ頓狂な悲鳴を上げてしまった。
冷たい何かが触れたそこを見ると、そこには可愛らしい柄のコップに八分程注がれているオレンジ色の液体。
突然のことに何事か分からず唖然としていると頭の上の方から可笑しそうに笑う声が聞こえてきた。
「ははっ、変な声!」
目の前をコップを辿るようにして見上げていくと、声をあげて面白そうに笑う先生の顔があった。
いい歳した大人だというに子供のように顔をくしゃくしゃに崩している。
そんな顔が瞳に映ると自分ではどうすることも出来ず、勝手に胸がとくんと鳴った。
「な・・・なんで、オレンジ、」
そんなことを悟られまいとするように顔をそっぽに逸らし視界に入らないようにして、渡されたコップの中のオレンジジュースを眺める。
これ以上直視していたらどうにかなってしまいそうだった。
早く鳴る鼓動を抑えるよう落ち着かせるためにジュースを口に含み、喉奥に流し込む。
さっぱりとした酸っぱさが気持ちを正してくれるような気がする。
「だってお前、蜜柑好きだったろ?」
はっと顔を上げ、机を挟んで目の前に座っている先生を見た。
前に一回だけそんなことを言ったような気がする。
でもそんな他愛もない話の中で言ったことを覚えていてくれたなんて。
たったそれだけの事なのにどうしようもなく嬉しくて、再び鼓動が早くなっていった。
「先生・・・、」
" "というたった二文字の言葉。
胸の内で何年もぐるぐると渦巻いている感情を一言で真撃に表すそれ。
伝えてしまえば楽になるかもしれない、何かが変わるかもしれない。
「・・・なんでもない」
――――唇だけが空回りして声にならなかった。
初めて会った頃に比べると大分距離は縮まったし、傍で笑っていることも増えた。
でも、伝えてしまったらそんな時間も、この時間も、全てが簡単に壊れてしまう気がする。
それが堪らなく恐ろしい。
それに先生は自身がそんな気持ちを抱いているなんて疑ってもないから未来がないのは分かっている。
まだこんな穏やかな時間を"ここ"で過ごしていたいから・・・もう少しだけ。
いつまでも変わることのないこの気持ちを隠しておいて、少しのチャンスが来るのを待ちたい。
途中で言うのをやめてしまったことにブーイングの声が聞こえたが、薄い笑みを浮かべてオレンジジュースを飲み込む。
広がっていく甘酸っぱさがやけに心地良くて切なかった。