名前も、学年も、何にも知らない。
それでも、自分でも良く分かる程大きな音をたてて胸が高鳴り、恋に落ちた。
すれ違い様に一目見た、その瞬間から。
「あんた、今日もまだ帰らないの?」
「もー少し、な・・・・」
時刻はすでに5時を回っており、窓から教室に差し込む陽に照らされているのは少女二人のみだった。
黒髪の少女は机に頬杖を付いて真っ直ぐに時計を見続けている親友に呆れ、小さく溜息を吐くと手短に挨拶を済ませ其処を後にした。
蜜柑は一瞬だけ視線を彼女に向けて手を振り見送ると、再び瞳の方向を時計に戻す。
5時20分まで、後10分。
そろそろか、と立ち上がると手短に帰り支度の用意をして教室を出るとゆっくり歩みを進める。
普通の生徒がよく使っている校門からクラスへ続く最短距離の道では無く、自分はわざわざ校舎裏を通る遠回りの道を行く。
人一人居らず、自分の足音だけがコンクリートの地面に反響する。
まだかまだかと逸る気持ちを抑え、亀の歩みの如く一歩ずつ前へ足を出す。
そんな動作を10歩程続けた後、前方から駆ける様な自分の物ではない足音が聞こえてきた。
地面に向けていた顔を上げると人影が此方に向かって駆けてくる。
待ち望んでいた人物だと分かると、ぐわわっと顔が赤く染まっていき、それを隠すように俯かせた。
心臓が早く脈打っていく。
いよいよ彼の荒い吐き出す息が聞こえてくるとぎゅっと制服の裾を握りしめ、その瞬間を待つ。
手を伸ばせば簡単に触れられるであろう、物的距離が近くなる瞬間を。
時間に計算すれば1秒にもみたない一瞬の出来事。
彼にとっては日常の中で過ぎ行く当たり前のことで、記憶にすら残っていないだろう。
それでも、自身にとっては時が止まったかの如くとても長く感じる。
そして、胸に焼き付いて離れない。
一日の中の一番楽しみで、ドキドキする時間。
学校指定のジャージを着ている様子から察っすると部活中なのだろう。
一歩一歩駆ける度なびいて揺れる綺麗な黒髪。
長い前髪に下に秘められている紅い目は濁りが無くとても綺麗で。
たった一瞬、そんな彼の姿を見るためだけに帰る時間を遅らせ、遠回りなこの道を通る。
部活中の彼に話しかけるわけにはいかないし、それに今の自分にはただ姿が見られるだけで十分だった。
「う、ひゃっ・・・・!」
これからもずっと見ているだけの進歩のない、この毎日が続いていくと思っていた。
だが、彼とすれ違った瞬間に思わず手に持っていた鞄を放してしまい、入っていた物達が四方八方に散らばってしまった。
短い叫び声と物が散乱する大きな音を聞いた彼は歩みを止め此方を見ている。
見られているという羞恥心に耐え切れず、彼に背を向け手を伸ばし、無惨に散っている物を拾い集めていく。
こんな格好悪い姿を見られるなんて情けない。
早く行って、と心の中で叫んでいると目の前に自身の筆箱や教科書がずいっと出された。
まさかと思い上体と共に顔を上げていくと、何時も遠目で見ていた紅の双碧と視線が交わった。
「あっ・・・・」
「・・・・・・・・」
予想通りの人物だったが、嬉しさとか羞恥とか色んな気持ちが胸を渦巻いていて頭は真っ白で、言葉が出ない。
呆けている自分に拾った物を無言で押し付けると彼は再び走り出した。
すぐさま我に帰り、少し離れてしまっているが彼の背に向かって声を張り上げる。
「・・・・っありがとうございましたっ!」
それを聞くと彼は再び足を止め、此方を振り返った。
そして、おもしろそうに口角を吊り上げてから口を開く。
「物拾う時は横着しないで屈んで拾えよ、・・・水玉」
悪戯そうに笑った顔も格好いい、と思ったのも束の間、言葉の意味を理解するとばっとスカートを抑えた。
水玉とは紛れも無く自身が今穿いているパンツの柄のことだ。
色んなことが頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
どうせ見られるならせめてもう少し大人っぽいのを穿いとけば良かったかもしれない、とかこんな幼稚なパンツを穿いている女で絶対に軽蔑されただろう、とか。
いや、一番に考えるべきなのはそんな事では無いのだけども。
青や赤に変化し続けている此方の顔をおもしろそうに眺めると、彼は三度走り出した。