「あのな、ウチ、」
それは高等部に進学してまもなくの事だった。満開の桜が辺りを桃色に染めていたのを覚えている。
そのもとで頬をほんのりと薄紅色に染め、此方を見る彼女。キュッと結び締めていた口をそろりと開け、か細い震えた声を出す。
緊張、しているのだろう。
「棗のことが・・・・好き、や」
拳を作った手を胸の前で白くなるほど強く握りしめている。
薄い桃の桜が風で吹き荒れ、彼女との間を遮った。
「・・・・俺はお前のこと"好き"じゃない」
合わせられている視線は逸らさない。
彼女の頬からは赤みが消え、瞳も一瞬揺れたような気がした。
それでも次の瞬間に広がったのは笑顔。
でもそれはいつものような輝かしい笑みではとても無く、無理に作っているような物だが。
眉は下がっており、我慢しているのが見て取れる。
そんな彼女を目の前にしても、自身は何も言わない。
「そっか。じゃあ、」
本当はずっと気づいていた。
出会ってから彼女に抱き続けていた感情。
胸が締め付けられるような、苦しみと愛しさを齎すこの感覚の意味は。
『恋』だって事に。あるいはそれ以上にものかもしれない。
けれど。
「今のことは忘れて、なっ」
忘れない。
ふわりと寂しげに笑った彼女の顔も、胸に鈍く突き刺さったこの痛みも。
絶対に、忘れない。
俺は終わりを恐れて、己の中を侵食しつつある"それ"から逃げ出したんだ。
***
「なつめ?」
耳元で聞こえた声と此方を覗き込んできた顔によって意識が呼び戻された。
机に向けていた顔を向けると、心配そうな彼女と目が合う。
それがあまりにも近すぎて思わず腰を引いてしまった。
「・・・ああ、悪い」
謝罪しながらも、近すぎる距離に驚きとそれ以外の感情で鼓動を早めながらさり気なく間を取る。
気づいていないか、とさり気なく彼女を見ればその間に視線を元のプリントへと戻していた。
そういえば今は課題を手伝っている最中だったな、と思い出す。
「紅茶、淹れてくる」
紅茶なんて甘ったるい物を自ら進んで飲もうとは思わないが、彼女が好んでいるのを知っている。
コーヒーは苦くて飲めたもんじゃない、と以前言っていたし。
・・・・そんな事知っていても、何にもならないのだが。
"あの日"からも、自身と彼女の関係が変わることはなかった。
今日だって、どうしても課題が終わらないからと泣きついてこられ部屋へ招き入れたのだ。
そんな彼女の態度に、告白された事が夢だったのではないかとさえ思えてくる。
逆に意識してしまうのはこっちの方で、内心どう接していいか戸惑っているというのに。
随分とまあ能天気なものだ。
「蜜柑?」
両手に温かい紅茶が入ったカップを抱え、部屋に戻ると蜜柑は机の上にうつ伏せていた。
零さないように気をつけてカップを机に置くと座り込み、彼女の顔を覗き込む。
思ったとおりというか、その瞳は長い睫の元に伏せられており、安らかな寝息までたてている。
「間抜け面・・・」
何となく能天気そうなその表情(かお)にムカついて、良く伸びる頬を抓った。
まるで気にする様子も起きる様子も見えない。
餅のように何処までも伸びるそれはおもしろいが、いい加減指を離した。
微かに赤く腫れてしまった頬を今度はやわやわと擦る。
それが気持ち良いのか顔には微笑が広がっていく。
たったそれだけの事で、胸が勝手に戦慄いてしまう。
あのときから何も変わらない関係。 全ては己が望んだ結果。己が望んだ距離。
これ以上に何を望む。
「な・・っめ・・・」
縋るようにして呼ばれた自身の名前に意識を現実に戻した。
声を発した本人の顔を見れば先ほどの穏やかな顔はなく、頬がしっとりと濡れていた。
一筋の涙によって。
知っている。
視線やさり気ない仕草から本当はまだ自身を好きなことぐらい。
でもそれに気づかれないよう必死で押さえ込んでいるのも。
そして、そんな彼女を見る度にどんどん沸き立ってくる感情。
こんなもの、気づきたくなかったのに。
***
夢を見ていた。
棗からキスをくれる。
ふわふわと柔らかに触れては離れ、何度も重ね合う。
あたたかくて優しくて。
このまま死んでも良いぐらい、幸せだった。
「・・・ん・・・・」
寝起きで視点が定まらない目を泳がせる。
目に入ってくるのは自分の部屋の物では無い家具や装飾品。
ぼんやりとした意識の中で此処は何処はだっけ、と思考を巡らせた。
「やっと起きたか」
寝起きで気だるい体を起こし、顔を向ける。
カーテンから差し込む眩しい日に目を細め、少し離れた所から此方を見る人物を捕らえた。
「昨日、途中で寝ちまっただろ」
昨日――――
そういえば、キッチンへ立った彼を待っている間に睡魔が襲ってきて眠ってしまった。
夜遅くという事もあったし、此処最近の夜更かしが原因かもしれない。
両手を上げ伸びをするとタオルケットが滑り落ちる。
彼がかけてくれた物らしい。
良く見れば自分が今居るのも彼のベッドの上。
さすが幹部生の代物というのか、寝心地抜群で朝を迎えられらた。
夢心地だった記憶を辿れば、確か机にうつ伏せて寝ていたはずだが、運んでくれたのだろうか。
ちらっと一目見てから、床に広がっているタオルケットを拾い上げた。
指先から暖かな温もりと彼の香りがふわっと広がってくる。
自然と顔が緩んでいた事に気づかなかった。
彼がそんな表情を見ていたことにも。
「・・・まだ皆が寝てる今の内に、部屋もどっとけよ」
声に反応して顔を上げれば、とうに視界から彼の姿は消えていた。
先ほどまでの気持ちは消え、代わりに胸を占めるのは行き場のない悲壮感。
「何やっとるんやろな、ウチ―――」
付き合っているわけでもないのに、適当な口実を作って部屋に押しかけている。
ましてやもう告白して振られた身だというのに。
諦めが悪い自分に反吐が出るし、嘲笑が浮かぶ。
必死で気にしてない風を装って、今までと変わらぬように接する。
こんなことをするぐらいなら、告白なんてしない方が良かった。
それなら前までの関係でいられたはずだ。
いや、いっそ。
自分を掻き乱すこんな感情なんて、無くなってしまえばいいのに。